フィヴェの日記

日々の生活の中で思ったこと等をなんとなく書いてます

読書感想|「書く習慣」-20230904読了

 今回は「書く習慣」の感想を書きます。

 

・基本情報

題名:書く習慣

著:いしかわゆき 発行:2021年12月22日 発行所:クロスメディア・パブリッシング

 

 

 

・簡単な概要

 書くことはそんなに難しいことじゃない! 書く習慣をつけるコツはこの本に載っている。

 

 

・感想

 「はじめに」には私が共感できる部分があまりないように思います。なので、読み始めた時は「この本は私には合わないかもしれない」と思いました。第1章に進んでも、その思いはあまり払拭できませんでした。第2章からは一気に心動かされると思うことが増えました。疑問や、新たな発見、本文に対する反論が沢山ありました。第3章から第6章は私にとって、学びの多い章でした。第4章は私にとって一番参考になることが多かったです。

 

 「はじめに」を読んで、著者は人生において苦労している人なのかなと思いました。少なくとも、著者は私よりも長く生きているでしょう。するとやはり、私よりも様々なことに触れてきたことでしょう。「文章を書くためには文才が必要」ということは少なくとも私は言われたことがないし、「好きこそ物の上手なれ」ということを根拠に私は日々書いている節があります。なので、「文章を書くためには文才が必要」と考えている人が一定以上いるだろうという文章に驚きました。そして、そのような考えをする人が多いのなら悲しいことだと思います。なぜなら、文章を書く人が増えれば必然的にそこに楽しみを感じる人も増え、私の好きな文章を書く人の数も増えるからです。

 「文才がある人は国語が得意だった人」ということには異を唱えたいので、「文章を書くことは文才がなくたってできる」と言う著者に賛成です。国語が得意だからといって、文才があるとは限らないじゃないですか! それなのに、勝手に期待して、期待に添えなければ勝手に裏切られたと騒ぐのです。まあ、国語が得意と一口に言っても、色々ありますよね。例えば、テストで良い点を取っていたということは文章を書くこととは全く違う話なので、その人に必ずしも文才があるわけではないです。しかし、作文が得意だったということなら、話は変わってきます。それでも、作文にはある程度の型があるので、やっぱりそれだけでは、文才がある人だとは言えないと思います。

 才能がないと気づくときは、個人的には才能に満ち溢れた人を見た時だと思います。才能がないと気づくまで書かなくても、自分よりもすごい人を見て心が折れたという話は世の中にごまんとあるでしょう。私にも覚えのある話です。それでも、本文に書いてある通り、才能がないと嘆いているだけはダメだと思います。

 「一般的にこうだと思っていることが正しいとは限らない」ということは大切なことだけど忘れがちだなと思いました。確かに世の中には一応の正解、というか「普通」があります。でも、「別に世の中の普通に従う必要はないよね」ということは素晴らしい考え方だと思います。

 

 第1章では、「自分の文章に意味付けをするのは読んだ人」ということが印象に残りました。確かに、ブログの文章は読む人ありきの文章です。読む人がいることを前提に書くでしょうし、読む人も誰か宛の文章であると思って読んでいるでしょう。と考えると、当然と言ってもいいことなのでしょうが、私は、この本を読むまで、そのことに気づかなかったです。

 

 第2章では主に書くことの習慣化について書かれていました。習慣化したいことは、日常の一部となるように溶かし込むと良いそうです。他には、「思考停止時間」やスキマ時間を使うことも良いそうです。私にはスキマ時間を使ってまで習慣化したいことは特にないので、このままでいいかなと思いました。あと、「思考停止時間」があまり、ピンときませんでした。パッと思いつく場面は、大体何かしらを考えていたり、私はしていないことだったりするので、意識して生活したいなと思いました。

 書くことを習慣化する手法として、Twitterを使うことも紹介されていました。映画やドラマなどの作品の感想を、140字以内の感想なら手軽に発信できるだろうとのことらしいです。でも、私はそのコンテンツが面白ければ面白いほど、長い感想になってしまうので、140字にまとめるのは難しそうだなと思いました。

 「一つの出来事について、「なぜ」と問いただすことで話を膨らませることができる」ということは、私がブログを書くときに役立てていきたいなと思いました。問いかけを重ねることで内容に厚みを増すことができるのは、感情についてより深い理解を深めることもできるので、ぜひやってみたいと思いました。

 

 第3章で、著者はインプットが大事だということにふれています。また、「インプット」と言う言葉では無機質に感じるということが書かれています。自分の外側にあることを吸収することは確かにインプットという言葉で表されるのに、それでは硬質的になってしまうということは、面白い見方だと思いました。

 インプットとして本を読むということがあります。気になった部分に印をつけて読むと、後で感想を書きやすいそうです。しかし、私は綺麗な新品の本にそれをするのは、親切に足を踏み入れるようで躊躇してしまいます。

 自分に取材するように書くことをまとめていくと、話が広がるそうです。話に深みを持たせるために、私も自分の中に自分専用のインタビュアーを持っておくことを心がけたいです。

 

 第4章では読者に伝えやすい方法について書かれていました。例えば、「中学生でも理解しやすい言葉で書く」ことがあります。これはあまりに専門的な言葉を使うと、話を理解しづらくなり、取っ付きにくくなってしまうことが防げます。しかし、生活の一部になってしまったことは、世間から見た時に説明もなく伝わることではないことに気づきにくいです。なので、「自分の常識を疑いつつ書くことが大事」であると書かれていました。

 「ターゲットを絞って書くことが大事」ということが書かれていて、書くことを仕事にしている人ならではだなと思いました。そのターゲットは過去の自分宛や身近な誰かに向けていてのいいそうです。

 無理矢理、綺麗に占める必要はないそうです。しかし、私は綺麗にまとめることでテンプレート化を図っているのではないかと思います。「着地点をどうしよう」と思いながら書くことは大変ですから、考えなければいけないことを少なくして、書くことのハードルを下げることは意味のあることだと思います。けれど、ありきたりな締めが続くと、確かにうんざりしてしまうこともあります。文章の終わり方というのは難しいなと思いました。

 本音を書くことで、その人にしか書けない文章ぽくなるということに、なるほどと思いました。その人の内面を曝け出すことは難しいことではありますが、その人の思うことを書くとオリジナルな文章になりますね。

 

 第5章の「体験談は誰かにとっての有益情報になりやすい」ということは、確かにと思いました。私もよく、他の人の体験談を聞きたくなることがあります。それに、感想を入れれば、その文章は自分のオリジナルになるので、読まれやすくなるのではないかと思いました。「例え変な感想でも需要はある」ということには勇気づけられました。世間の普通だろうと思っていることから外れていても、文章としての価値が損なわれるわけではないのだろうと思います。本当に需要があるかどうかはわからないですが。

 「書き手の主観が入っているタイトルは読みたくなる」ということは、なるほどなと思いました。確かに、主観で物を言っていると目を引きますね。

 また、「画面の向こうへの語り掛けが大事」だそうです。私も推しの書いた文章で、こちらに語りかけられてドキッとしたことがあるので、確かにそうだなと思いました。決して同じようにとは言えませんが、私も画面の向こうへの語り掛けを大事にしていきたいです。それに、常に画面の向こうを意識することで、不適切な言葉を使う可能性が下がりますね。

 

 第6章で「悩みを書き出すことで解決できることがある」とありました。悩みはぐちゃぐちゃに絡まった糸のようなものなので、ひとつづつ書き出していくことで、悩みを解決へと導けますからね。また、「自分ではマイナスに思ったいることでも、書くことで肯定しやすくなる」ということはこれに通じるところがあるのではないかと思います。ぜひ実践していきたいと思いました。

 日記を書く際には例え「平凡な一日でも何かしらはあったはず」という視点を無くさずにいきたいです。細かなラベリングをすることで、何もない日が〇〇をした日に変わるということは素晴らしい考え方だと思います。

 

 

・気になったこと(下記引用部分は「」より引用)

ポエトリーリーディング」というものをご存知でしょうか。

 25ページ9行目。

 詩人が自身の詩を音楽の鳴っているなかで読み上げること。

 

ドッグイヤー(角を折ること)をしたりすることも躊躇してしまいます。

 142ページ5行目。

 ドッグイアとも言う。

 

その本のなかで、「モーニングページ」というワークが紹介されていました。毎朝30分、心に浮かんでくるものを、とにかくなんでもいいからノート3ページ分に書きとめるワークです。

 236ページ4行目。

 ちょっと早起きして書くことが大事だそう。八週間は読み返さないことが大切らしい。

 

読書感想|「それをAIと呼ぶのは無理がある」-20230904読了

 今回は「それをAIと呼ぶのは無理がある」の感想を書きます。

 

・基本情報

題名:それをAIと呼ぶのは無理がある

著:支倉はせくら凍砂いすな 発行:2020年11月25日 発行所:中央公論新社

 

 

・簡単なあらすじ

 万能AIが現実世界へと登場し、人の生活はAIに依存するようになった。そこには様々な愛の形があった。全五篇から成る連作短編集。

 

 

・感想

 第一話を読み始めた時、私は驚きました。なぜなら、AIが主人公たちと軽口を叩いていたからです。今のAIでも難しいことをさも当然かのように行っていたので、近未来での話なのだとわかりました。また、AIが映像として現実世界へ介入していることにも驚きました。この本の中のようなAIが私たちの住む現実世界にいたら、どんなに楽しいことだろうと思います。あくまで人間が使う道具として、人間と対話するAIは自らのあり方が、どの話でも決して揺らがず、すごいと思いました。

 

 最も印象に残った話は第四話です。不完全だからこそ可愛らしく思えて受け入れられるものもあれば、不完全だからこそ恐れが湧くものもあるのだなと思いました。例えば、幼児の片言は可愛らしく聞こえます。しかし、機械の自動音声は人間に近ければ近いほど、不完全な部分が際立ち、不快に聞こえます。いわゆる不気味の谷というやつです。どちらも言葉に不完全な部分があるという点は変わらないのに、前者は可愛らしく、後者は不気味に感じさせます。必ずしも完成形に近ければ近いほど良いというわけではないのだなと思いました。

 

 第三話は主人公に尊敬しました。本当に好きなものの為になら、どこまででもできる主人公は素晴らしい努力家だと思います。自分の失敗から、冷静とは言えなくも、学びを見出しているところも尊敬できます。

 

 

・調べたこと(下記引用部分は「」より引用)

ちなみに「中国語の部屋」というのは、日本語しか話せない人と中国語しか話せない人がいて、お互いなにを言っているかわからないけれど、たまたまお互いの行動が合致していれば、言葉は通じなくても通じているように見える・・・・・・という思考実験のこと。

 87ページ15行目。

 本文の内容は概ね間違っていないが、捉え方によって読み手が間違った認識をする。

 相手の行動にその人が内容がわからないまま対応しても、相手の期待する結果を返している間は、外から見て意思疎通ができているように見える。ということについての思考実験。

 

楽し過ぎたお出かけ-20230919

 昨日はブログを触る余裕がなかったので、昨日のことを今日書いておこうと思います。

 

 昨日は、久しぶりに会う友達と遊びに出かけました。可愛いと言われることが多い人なので、Kさんとしておきます。Kさんは何かの事情で昨日がちょうど突然、暇になったらしいです。それで、そこにタイミングよく連絡してきた私と遊びに行くことにしたそうです。

 Kさんを一言で表すなら、「超善人」です。結構口は悪いけれど、根がすごい良い人です。なんでもかんでも相手にお任せな態度は少し困りますが、それ以外は本当にいい人です。優しいし、気遣いができるしで、一緒にいて楽しいのです。特に、口下手な私に取ってはたくさん話が尽きないのは嬉しいです。

 

 Kさんとは、駅で待ち合わせをしました。私は前日から色々と準備していたので、家を出発する三十分前にはすでに全部の準備か整っていました。後から、せっかく出かける機会なのだから、アクセサリーをつけて行けば良かったなと思いました。私は服を三日前から用意しとくなどの浮かれっぷりだったので、多少の忘れ物があるのはしょうがないことなのかもしれません。財布やスマホなどの重大な忘れ物じゃなくて良かったなと思います。

 Kさんは「早くについていたけれど、駐車に手間取って待ち合わせ時間に迫ってしまった」と言っていました。確かに、駅の近くの駐車場は狭いのでしょうがないなと思いました。Kさんは初め、あまりに久しぶりすぎて私に気づかなかったです。私も目が悪くKさんに気づかなかったので、おあいこですね。

 それから移動して、事前に調べていたカフェに行ったのですが、席が一杯で断られてしまいました。なので、もう一個のお目当ての店に行って、順番が逆にはなりますが、先に甘いものを食べることにしました。その後、カフェは諦めて他のところに行こうとしたのですが、丁度通るのでもう一度寄ってみることにしました。そうしたら、今度は席が空いていたので、そこでお昼にすることにしました。

 カフェはお昼時を過ぎ、おそらく一番の混雑時が過ぎたのでしょう、私たちが来てから空き始めました。私たちがいる間におやつどきで混みだしたので、私たちはちょうど良い時間に店に入れたのでしょう。お話をしながら、少しおしゃれな昼食を食べ、デザートまですっかり平らげた私たちは、ちょっと長居し過ぎたように思いました。それから駅に近いマックに居座って、またお喋りをしました。

 その後、日が暮れる前に帰路に着きました。楽しかったです。意外と歩いたので、足が少し痛かったですが、楽しさに影響はありませんでした。また、遊びに行きたいと思っています。

 

 やっぱり、少し長くなりましたね。今日は本当にこちらの思い出話に付き合って頂きまして、ありがとうございました。

 

特別お題|わたしがブログを書く理由-20230919

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 私がブログを書いているのは、日記を付けたかったからですね。ウェブ上で付けられる日記のサイトがあったらそこの方が良かったのですが、あいにくと見つからなかったのです。だから、ブログを日記として書くことにしました。

 日記を付ける始めたきっかけは、「寂しい夜にはペンを持て」という本です。

 この本↑がすごい面白いのです。「私も何か書きたい!」と思い、日記をつけ始めました。他には、日々の記録を付けておいたら後で読み返したら楽しいだろうなと思ったからです。

 昔、手書きで日記をつけていたのですが、手書きだと時間がかかることこの上無いのです。それで、面倒くさくなってしまって日記と付けるのをやめてしまったことがあります。その反省を踏まえて、手書きではないウェブ上でできるものにしようと思い立ったわけです。

 

 ウェブ上であることには多少の不便がもちろんあります。ネットの海に放つ以上、個人情報はほとんど入れられないですし、人名なんか以ての外です。詳しい事情も入れられないし、大人を想定している以上、話は一番初めから整理して書かなければいけません。しかし、出来事を整理して考えることはやりやすいですね。

 当然といえば当然ですが、日記として生活の備忘録にして最大限活用しようとすることは難しいでしょう。でも、私がやりたかったのはあくまで「書くこと」なので、まあ、特に問題はないわけです。日常で被っている猫も必要ないですしね。日々の日記にアクセス数やスターで反応が返ってくるので、続きやすいですよね。

 

 そんな感じで、私のブログはひたすら日記です。では、ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

疲れると話題が飛ぶ-20230917

 なんか、一日中お腹空いたって言ってる気がします。食欲の秋ってやつでしょうか? 

 

 本当に困ってるんですよ。夕飯食べた三分後には「お腹空いたな」って。ギャグじゃないんですから。この間病院行った時についでに話したら、「食欲の秋じゃない?」って言われました。「あっ、そんな感じなんだ・・・・・・」って思いました。いやでも、お腹はいっぱいなんです。もう入らないんですよ。なのに、常に空腹を感じているんです。空腹というか、食欲がすごいんです。これほんとに食欲の秋なんですか?

 

 食欲の秋といえば、何思い浮かべますか? 私は、食欲の秋との相性があまり良くないです。栗も芋も苦手なんですよね。よく栗ご飯が褒め称えられるのを見ますが、食べられないので旨さが実感できないですね。でも、山菜ご飯とか、松茸ご飯とか、梨とかは好きなので、受け皿の大きい食欲の秋は偉大なんですね。

 

 

 もう九月だっていうのに、ひどい残暑ですね。とても秋だなんて思えないです。このままだと、あっという間に冬が来て、秋が消失してしまいそうです。まだまだエアコンが手放せない日々が続いておりますね。

 最近は、あまりブログの更新もできずで、「こんな自分・・・・・・」と自己肯定感が下がっております。でも、ブログって別に毎日更新するかはその人次第だから、別に毎日じゃなくたって良いはずなんですよね。どっかでねじ曲がっちゃたんですね。

 

 

 ちょっとした夏の課題として、古い名作を読んでいるのですが、これが退屈なことこの上無いのです。「どれがどのように」なんて無粋なことは言いませんが、あまりにもつまらないのがいくつかあったのです。なんとかかんとか読み切ったのは良いのですが、とてもとても感想を書く気にはならなかったです。

 面白いのもあったのですよ。ただ、人っていうのは良いものよりも悪いものが目につくもので、つまらないものの印象が強すぎる! 面白いものも、そこまでインパクトのある面白さではなかったですね。比べるとまだマシな感じです。それでも、面白いと散々言われているから、名作なのでしょう。すると、私の読書力が足りないはずなのです。そうじゃなきゃ道理が通らないってものです。

 

 そんな感じで精神が疲弊しているので、今日はここらで失礼させていただきます。ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。

 

自分に無いから「憧れ」なのかもしれない-20230915

 私は、というか皆様にもあると思いますが、「目標」についてをよく考えます。

 ちなみにですが、私は人から目標を尋ねられることがあまり好きじゃないです。なぜかというと、目標を伝えてしまうとその人と約束したような感じがしてしまうからです。約束は必ず守られるべきだと思うので、私はあまり人と約束をしないです。果たせる自信がないので、そもそもしないという選択をしてます。話がそれましたね。

 私が今している日記も「毎日付ける」という目標があります。こういったものでなくても、「あの本を読みたい」とか「この映画を見る」とかいった極々簡単な目標は日常的に存在してますよね。それ以外に「憧れに近づきたい」というものも目標と言えるのではないでしょうか。

 ということで、私の「目標」。もとい「憧れ」について書こうかなと思います。

 

 幼少期の私の「憧れ」は背の高い友人でした。仮にTさん(tallのTです)としましょう。Tさんは二個上に見えるくらい背が高かったです。そこの家族は皆、背が高かったので羨ましかったです。私がTさんのようになりたいと思っていたのは身長の話ではないのですが、幼い頃は体格差が色々と有利になるものですよね。それから、習い事で体操をしていて体がすごく柔らかかったです。私も一時期、一緒に習いに行っていました。しかし、私はあまりにも運動をすることが下手で、一年に一回は大きい怪我をして長期間練習に行けず同級生に置いていかれることが嫌でやめてしまいました。Tさんには姉がいて、それがとても羨ましかったです。私には歳の近い、血の繋がった人に滅多に会えなかったので、姉や兄のような存在は喉から手が出るほど欲しいものでした。

 「Tさんのように振る舞えたら」と思ったことは何度もありました。Tさんは、なんというかヒーローのような人でした。運動神経も良く、何でもそつなくこなし、友達が沢山いて、何をやっても一番に輝く人という風に思っていました。なんせかなり小さい時です。まだ「テストの点が・・・・・・」みたいなことはなかったので、体格に恵まれて運動ができるだけで尊敬できる要素はかなりあると言えるでしょう。それに、Tさんはすごくハキハキと喋る人でした。あれが好き、これが嫌い、と堂々と言えることは私には難しく、当時の私にはとても眩しく見えました。

 

 もう一人、長い期間私の「憧れ」だった友人がいます。私はその友人のことを考える時に、ふわふわの髪を思い出すのでFさんとしましょう。Fさんと私は腐れ縁でした。私が色々と考えて足を踏み出す先にいつも居たのです。人によってはそういった存在はうんざりするかもしれませんが、自分にあまり自信がなかった私には間違いでないという証明になることでした。それに、先達がいると色々と聞けるので、その点でもありがたかったです。

 Fさんは私と色々を競い合ってくれました。読んだ本の冊数だったり、テストの点だったり、検定の級だったりを競っていました。Fさんの良いところは、決して私の苦手な分野で競おうとはしなかったところです。相手のことをいつでも慮れるところを尊敬しています。私とFさんは同じくらいの実力の内容で戦っていました。それは私の良いモチベーションになっていました。

 

 TさんもFさんも素敵な「憧れ」でした。もちろん今でも友人ですが、前に比べれば幾分か距離はできてしまいました。成長するにつれてできる必然の距離ですが、昔を想うと少し寂しく感じます。

 思っていたよりも長くなってしまったので、今日はここまでにしようかなと思います。お付き合い頂き、ありがとうございます。

 

うまく泣けない-20230915

 本日の「書く習慣」からのテーマは、「最近泣いたこと」です。

 

 最近泣いた時は、「教室に並んだ背表紙」という本を読んだ時です。読書感想↓は以前書きました。

fiv5-mon.hatenablog.com

 

 

 卒業式とかで泣いたことはないです。悲しくても泣けないのです。だから、そういう泣くような場面は苦手です。泣いていないと薄情な人に見えてしまう気がするんですよね。ところが、最近は本を読むだけで泣けるようになりました。年月を経て成長したんでしょうね。ただ、いまだに悲しい場面で泣くことはできないです。確かに悲しいと思っているんですけどね。

 自分が悲しい時に泣けないのに気づいたのは、小学一年生の時です。当時の担任が離任するという時に、自分以外の全ての子が泣いていました。それなのにも関わらず、私は涙一滴も出なかったのです。悲しいという感情を処理するよりも、泣けない自分に困惑したことを覚えています。それからは、別れのシーンは居心地の悪いものでしたね。だって、ちっとも泣けないんですから。仲の良い先輩が卒業する時も、先生との別れも、身内の葬式ですら泣けないのには、正直引きました。「こんなにも悲しいのにどうして?」と思ったことを覚えています。もしかしたら、他の人はもっと悲しいのかもしれないですね。

 

 私は泣くのが苦手です。特に心が動いていないときに涙を流すのは大丈夫ですが、感情が動いた時はうまく泣けないのです。なんなら涙よりも鼻水でぐずぐずになります。元々、泣き辛いのもありますが、うまく泣けないのも相まって、泣くのは尚更苦手です。泣かないように躾けられたからでしょうね。

 

 では、ここまでお付き合い頂きありがとうございます。